『In TRANSIT』 ライナーノーツ公開。

まず少し大きな話から始めたいと思う。2000年ごろの音楽シーンについて書くところから始めてみたい。
この時期は世界中で様々な新しい音楽がうごめいていた時期だった。

2000年には ディアンジェロ『Voodoo』、エリカ・バドゥ『Mama’s Gun』、コモン『Like Water for Chocolate』がリリースされた。
2003年にはそれらの名盤に参加していたジャズ・トランぺッターのロイ・ハーグローヴが RHファクター名義で『Hard Groove』をリリースした。
ディアンジェロらの名盤と同年2000年にレディオヘッドは『Kid A』をリリースしていたし、その少し前1998年にはトータスが『TNT』を発表している。
2001年にはジャムバンドシーンでも人気を集めたオルガントリオのソウライヴが『Doin’ Something』でブルーノートからデビュー。
この時期には、ファンキーDLやサウンド・プロヴァイダーズなどのジャジーヒップホップが人気だったのも2000年代半ばごろだ。
1997年にJディラはスラム・ヴィレッジとして『Fan-Tas-Tic (Vol. 1)』を、2001年にはジェイ・ディー名義で『Welcome 2 Detroit』を発表している。

そして、2003年にはロバート・グラスパーが『Moods』でデビュー。
まだヒップホップ的な要素は聴こえないが、ジャズシーンでの第一歩をストレートアヘッドなピアニストとして踏み出している。

では、その頃、日本ではどうだったのか。ここで2つのインタビュー記事から二人の発言を抜粋したい。
最初はトランぺッターの類家心平の言葉から。

類家「渋谷のTHE ROOMでやっていた〈SOFA〉というジャム・セッションのイヴェントにも顔を出すようになって、そこで知り合った人に誘われてurbに入ることになりました。〈SOFA〉はSOIL & “PIMP” SESSIONS や quasimode のメンバーがいました。
thirdiqの渥美幸裕とかドラマーの天倉正敬ともそこで知り合った。
そこでは曲を演奏するというよりもインプロが主体で、みんなでソロを回したり、ヴォーカリストも即興で歌う人が多かったですね。
マイルスカフェではファンクセッションのホストをやっていました。Ovallのメンバーに、groovelineのSoshi(内田壮志)やcro-magnonもいたし。
あとはpochi(林田裕一)。彼もRHファクターやファンクが好きで、マイルスカフェでもそういう曲を演奏していたんですけど、
いまではEXILEの音楽を手掛けていますからね。
あとはヒップホップやブラック・ミュージック寄りの人たちとの接点もいろいろあったな。
あとは渋谷のPLUGで〈urb’s bar〉という自分たちの主宰イヴェントを月イチでやってました。」

2000年代の半ばごろ、東京では渋谷や池袋のクラブやライブハウスでは、ネオソウル、ジャムバンド、クラブジャズ、ジャジーヒップホップなどが動き始めていた。
Urb、SOIL&”PIMP”SESSIONS、CRO-MAGNON(Loop Junktion)などがそれぞれの音楽を模索しながら、動き始めた頃だ。
では、次はmabanuaの発言を見てみよう。

mabanua「僕と類家さんは古い仲なんですよ。
池袋のマイルス・カフェという店に、RHファクターとかネオ・ソウルを聴いてるミュージシャンが集まって、ディアンジェロ的なグルーヴを試すセッションをやったりする小さいシーンが2004年から2006年くらいにあって。
僕はそこで、そういうリズムを鍛えましたね。そのときに繋がりのあったトランペッターが類家さんだった。
urbやgroovelineに、僕らOvallもマイルス・カフェから出てきたバンドなんですよ。
あそこのジャム・セッションで知り合って、いまがあるという感じです。」

池袋や渋谷で生まれていた小さなシーンがここ10年の日本の音楽シーンにどれだけ大きな影響をもたらしていたかは、
今になって振り返ってみるとわかることだ。
特に00年代、ジャジーヒップやクラブジャズ、ジャムバンドの隆盛の起点の多くがここにあり、今や押しも押されぬジャズシーンのトップランナーになった類家心平をはじめ、世界中のジャズフェスにも呼ばれるクラブジャズの最高峰グループ SOIL&”PIMP”SESSIONS、日本における生演奏ヒップホップのパイオニアでもあるLoop Junktionなどが同時にそんなシーンにいたことは驚き以外の何物でもない。
意外なところではメディア・アーティストの真鍋大度もこのシーンにいたという。

ようやく本題に入るが、Shingo Suzuki、mabanua、関口シンゴによるグループのOvallもそんなシーンから生まれた。
彼らは「バンド」ではあるが、マイルスカフェから出てきたと本人が語るようにそういったジャムセッションの場に出入りするような「個」の集まりであるのが特徴だろう。
所属先よりも個が先に立つ彼らは、ある意味でジャズミュージシャンやスタジオミュージシャンのような立ち位置であるとも言える。
彼らはそれぞれが「メンバー」ではなく、独立した「演奏家」なのだ。

ただ、それと同時に個々がプロデューサーでもある。作編曲はもちろんだが、ビートも作る。
生演奏とプロダクションを両立させているというか、それらを並行して行っているようなミュージシャンなのだ。
そんなミュージシャンもいるにはいるが、そんな主役級のミュージシャンが集まってグループになっているようなケースを僕は他に知らない。

それぞれが尾崎裕哉、藤原さくら、秦基博、福原美穂、S.L.A.C.K.、さかいゆう、SKY-HI、CHARA、Gotch、米津玄師といった
様々なミュージシャンに起用されているが、ライブでのサポートだったり、作品での演奏だったり、作曲だったり、ビートの提供だったり、Remixだったり、起用法も多種多様。
OvallとしてもヒップホップグループのGAGLEとのコラボレーションアルバムを作っていたりもする。
彼らはあらゆる意味で音楽に対して、自由なのだ。
演奏も作曲もプロダクションも、その時に自身が必要とされていることを確実に選ぶことができる。
それはある意味では、ディアンジェロやエリカ・バドゥの名作を手掛けたソウル・クエリアンズのような立ち位置なのかもしれない。
Jディラやクエストラヴやジェイムス・ポイザーやピノ・パラディーノらがコレクティブとしてやっていたようなことを、今の、そして、日本での表現としてやっているともいえるのかもしれない。

そんなOvallのサウンドは、復活前よりも今聴いたほうがその魅力が自然に伝わるものなのかもしれないと僕は思う。
生演奏とプログラミングの感覚が同居した彼らのサウンドは、ロバート・グラスパーがドラマーのクリス・デイヴらとやっていたJディラのビートを人力に置き替えたような部分もあるし、フライング・ロータスやテイラー・マクファーリンが生演奏とプロダクションの境界を溶解させたような作品とも同じ耳で聴ける部分もある。
さらに言えば、オーストラリアのハイエイタス・カイヨーテやLAのムーンチャイルド、イスラエルのバターリング・トリオのように
ネオソウルやロバート・グラスパー周辺の現代ジャズを出発点に、生演奏とプロダクションのコネクションを更に深めつつ、ネオソウルやジャズとは違うベクトルでの新たな音楽を生み出しているグループとも共振する部分があるだろう。
休止中に時代がOvallに近づいてきた、とも言っても過言ではない。

ジャジーヒップホップでもなく、クラブジャズでもなく、ジャムバンドでもない彼らのサウンドは、様々な要素を内包しながら、生演奏を軸にしていたこともあり、ヒップホップやエレクトロニックミュージックの要素はあっても、
ダンスミュージックとも言い難く、「クラブ」の括りでは上手く聴きとれなかった部分がある。
ただ、それが「ライブハウス」の音楽かと言われても首をかしげてしまう。
ただ、今ならそのあらゆるシーンの境界線上にあったサウンドにも耳をフォーカスできる準備ができているはずだ。

そして、様々な客演で培ってきた経験や、幅広い耳を持ったリスナーとしての感性により生み出されるサウンドは、ネオソウルやヒップホップ、ジャズといったタグだけでは不十分なものでインディーロックやアンビエントR&B、フューチャーソウル的にも聴こえるサウンドがあったりする。
だが、それでもまたベッカ・スティーブンスやテラス・マーティン、ボン・イヴェールやダーティー・プロジェクターズのサウンドを通過した今なら、そのクロスオーヴァーこそが耳なじみをよくしているようにさえ感じる。
ただ、国内で活動し、それぞれが日本のアーティストをサポートしたり、時に日本人アーティストと共演してはいても、サウンドをドメスティックに合わせることはなく、常にユニバーサルな音作りをしてきたのも特徴でもある。
彼らのサウンドは、リスナーとしての志向が、培ってきた経験や技術のフィルターを通して、自然に出力されているのだ。
肩の力は抜けているのだが、無理に市場に合わせようとはしないストイックさがある。
そんなドメスティックな味付けのないサウンドがより広く受け入れられる土壌が出来上がったタイミングでの復活ともいえるのかもしれない。

3人が3人とも目立った活動をしていたうえに、他のアーティストのサポートでそろって演奏していたりもしていたので、「復活」という言葉はいささか不思議な感覚だが、それでこの3人がOvallのサウンドという意識で、Ovallというひとつの有機体として演奏することは、やはり彼らの個々の活動やサポートとは違う響きを、違うグルーヴを感じられるのは間違いない。
今、日本のシーンが最も必要としていたグループが、絶妙なタイミングで帰ってくることを最大限の期待を胸に祝福したい。
そして、ここからまた何かが始まることも期待しつつ。

柳樂光隆 (Jazz The New Chapter)

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